そして今思うこと。

愛犬が亡くなる1カ月くらい前だったかなと記憶しているけれど

ある朝、かかりつけの獣医さんの待合室に

ある中年夫婦が入ってきて、受付で先生と会話をしてしているのを見たことがある。

けれど、その会話の内容はあきらかにそのご夫婦のワンちゃんを看取った話で・・・

ご夫婦が帰られたあとに、先生が

「今のご夫婦のワンちゃん、ゆうべ亡くなってね・・・」

とわたしに話してくれて、ものすごく驚いてしまった。

 

なぜ驚いたかと言うと、愛犬を亡くしてまだ数時間だというのに

ご夫婦が涙もなく、笑顔でにこやかにその報告をされていたから。

わたしはその姿勢に胸を打たれたし、

自分も同じように笑顔でありたいと素直に思った。

 

動物はかならず寿命が来たら自分より先に亡くなるということ

治らない病気もあるということ、いずれ食べなくなるということ、

そういう厳しい現実に決して抗うことなく、まっすぐ受け止めること。

抗えば抗うほど、後から襲ってくる苦痛は大きく辛いものになると思う。

抗うということは、自分がペットに対して「こうであってほしい」と願うこと。

食べてほしい、治って欲しい、元気になってほしい・・・・。

それが自然な形で叶うなら、もちろん幸せなことだけれど

老いを迎えているペットに対してそれを求めるのは時に苦痛を産むだけだと思う。

自分にとっても、動物に対しても。

「こうであってほしい」という自分のエゴは努めて排除して、

愛すべきペットの「苦痛を緩和してあげる」という

ただ一点だけに集中して、出来る限りのケアをしてあげること。

それこそが、わたしが理想とした「看取り」だったし、

そういう正しい姿勢をもって動物の最期を受け入れて行けば、

後悔や辛さの少ない看取りになるだろうと信じていた。

 

あのご夫婦だって、悲しいに決まっている。

けれど「正しく受け入れ、きちんと見送ることができた」という

やり遂げた気持ちがあるから涙をみせず、笑顔で先生に報告ができたのだろうし、

あの方たちの笑顔は、自分が目標とする姿だとそのときに強く思った。

 

 

そして、わたしもあのご夫婦に続くことができた。

愛犬を看取ったあと、午後の診察が終わる時間に獣医さんのもとを訪れて

亡くなったことを報告した。絶対に泣かないと決めていた。

やはり、先生は大変驚かれていた。

病気の進行はあったものの、想定していたことは

「完全に食べられなくなったら衰弱で1~2週間」という形だったので

まだ週単位の命はあったはずだから。

 

そして、わたしが素人考えで思ったとおり、

先生もやはり、「おそらく脳だろうね」という診断だった。

そのような突然の麻痺とわずか24時間での亡くなり方は、脳出血脳梗塞などが

起きた可能性が高いと。

 

どちらが良かったのかはわからない。

食べられない状態で、日を追うごとにやせていく姿をただひたすら見守って

あと数週間一緒にいられるほうが幸せだったのか?

まだそこまでやつれていない、自分の知っている愛犬の姿のままで余命を繰り上げて

脳疾患で旅立つことがよかったのか?

 

けれど、以前先生に言われた「全部この子にまかせておけばいいんだよ」という

言葉を信じるなら、

きっとやつれて骨と皮になっていく自分の姿を見せたくなくて、

またそれでわたしを悲しませないよう・・・

わたしに覚悟を決めて心の準備を整えさせるための最後の24時間を

用意してくれた上で

旅立つことにしたのかな?と思う。

 

最後に、先生には何度も感謝の言葉を伝えた。

1日おきの点滴通院だったけれど、単純に治療を施してもらうというだけでなく

わたしは幾度となく「看取るための心の準備」を先生から教わった。

どういう心構えでそのときに向かって行ったらいいのか?

自分は何をしてやるべきなのか?何ができるのか?

先生はいつもわたしを褒めてくれた上で、

心強くいられるような励ましの言葉をかけてくれた。

先生の言葉がなければ、わたしはやり遂げられなかったかもしれない。

父の時もそうだったけれど、

わたしはこういうピンチのときに、周囲から助けてもらえることが多い。

本当にそういう出会い運に恵まれているというか、ありがたいことだ・・・!

 

「私は何もしてないよ。NORAKOさんが頑張ったからだよ。本当に立派だったよ。」

 

と先生から笑顔で言われたとき、思わず涙がこぼれそうになったけれど

絶対に先生の前では笑顔・・・・!と決めていたので必死にこらえた。

 

先生に報告を終えて、晴れ晴れとした気持ちになった。

いつかのあのご夫婦のように、わたしも笑顔で報告ができたぞ!と。

 

振り返ってみても本当に怒涛の3か月だった。

「食べない」が日々深刻になり、朝起きた瞬間から

「今日は何を食べさせたらいいんだろう?何なら食べてくれるんだろう?」と

1日食べ物のことばかり考え、犬にとって毒になるもの以外は何でも試した。

 

思いつくとすぐに買いに走った。そして食べたor食べないで一喜一憂する日々。

皿に置いておいたお菓子を夜中に思いがけず食べくれた時は、

「もしかしたらもっと食べてくれるかも!」と、夜中の2~3時に食事を作った日も

何度もある。

なんとか食べてもらいたい・・・と必死になりすぎて

あれもこれもと試しているうちに

気が付けば2~3時間経っていることも日常茶飯事。

 

腎不全の悪化により、頻回な下痢も日常化していたので

部屋には常にトイレシーツを敷き詰めた状態。

夜中の下痢に対処するために、ずっとリビングのソファで寝起きして

夜中のトイレ介助やオムツ交換をしていた。

約3か月間、朝までずっと眠ったことはなかった。

 

2月には角膜炎→角膜変性症・・・と、目の疾患も悪化したので

3~4時間おきの目薬(✕3種類)も欠かせなくなり・・・

 

とにかく自分の1日のすべてが、

老犬介護だけに終始しているような毎日になっていて、

そのすべてが自分次第という大きな重圧も感じて、それが猛烈につらくてつらくて

ときどき現実から逃げたくなることもあった。

 

だから、愛犬を看取ったことはとても淋しいことでもあったけれど

「ああ、もうわたし頑張らなくていいんだ」

と、プレッシャーから解放されて、どこかでホっとしている自分もいたかなと思う。

そして、そう思ってしまうことに罪悪感を覚えたり・・・・と、

とにかくどこまでも飼い主の感情ってやっかいなものなのかもしれない。

 

看取ってからまだほんの1週間ほどだけれど、

自分が想像していた以上に、すんなりと前に進めていると思う。

それはきっと、

「近い将来別れる日がくるという現実から目をそらさず
きちんと向き合って心の準備をしてきた」

というのが一番大きいのかなと思う。

 

老犬介護や看護には、「正解」というものはない。

 自分が信じたこと、自分が愛情をもって愛犬のために決断することが

常に「正解」だと思う。

それに、自分自身が「これでいいんだ」と信じて進まないと

後から大きな後悔を残すことになるから。

つまり、わたしがこうして書いていることは、あくまで「わたしの正解」でしかない。

 

けれど今、わたしはちゃんと愛犬の命と、

自分の気持ちを昇華させることができている。

 

だから自分の向き合い方は間違っていなかったし、後悔はないと言える。

 

 

もう気持ちは前に向いている・・・!