今の自分で精いっぱい。

 以前の記事の中でも触れたことがあるけれど、

父には感情のルーティンがある。

norako-hideaway.hatenablog.com

 

そのルーティンというか、ローテーションというか・・・とにかく流れの部分だけ

もう一度ここに抜き出すとこんな感じ。

 

①父が体調不良や漠然とした将来への悲観でウツモードになる。

②いかに自分が不幸でつらいかをわたしに延々訴えてくる。

③わたしの超ポジティブな励ましによって父のメンタルが復活する

④前向き思考に加速がつき、明るくなる

⑤前向き思考に歯止めが利かなくなり、根拠のない自信で傲慢な言動をとり始める。

⑥行き過ぎをやんわり制しようとすると、こちらの些細な言葉にキレる。

⑦わたし、ストレスと怒りを溜め込む。

⑧そのうちまた父がウツモードになり、①にもどる。

実際、 ブログに綴って来た父との関わりは、大抵これのどこかに当てはまっている。

面白いほどサクっと。

一番最近では、酸素吸入について父が暴走し始めたことで関係が少しギクシャクした

けれど、それはなんとか修復できた。

ホっとしたのもつかの間・・・・今週になって今度は父のメンタルが下降してきて

これまでとは別の意味で、父を訪ねるのが憂鬱になってしまっている。

 

時期的に、そろそろ悲観的になる時期だとは思っていた。

退院したのが11月はじめ。そこから約2か月かけて、少しずつ体力が戻って来たので

本人の口からも「退院したばかりのころよりずっと体調がいい」という

前向きな言葉も聞かれたのだけど、

高齢者というのは、入院するたびに確実に体は弱くなると言われている。

一段階ずつ下がると言われている。

だから、「入院する前のように戻りたい」と本人がどんなに思っても、

その水準まで戻ることは難しい・・・・と、わたし自身はわかっていた。

けれど、そんなネガティブな見通しを父に話すわけはないので黙っていたため

父本人はそうは思っておらず、

「早く入院前の体力を取り戻してまた旅行に行きたい」などとよく言っていた。

本人の希望を奪うわけにはいかないので「そうだね~」と言葉を濁したきたけれど

どうやら父自身がようやく最近になって

「もうここが限界では?」という事実に気付いてしまったようなのだ。

 

「身体がだるい」「目が乾いて痛い」「背中が痛い」「散歩にいけない」

「こんな体ではどこにも行けない」「春になったら歩けるようになるだろうか」

 

・・・・と、次から次へと、行くたびにウツウツとしたボヤキが増えてきた。

もちろん、わたしのほうは努めて明るく接して、体調の話題よりも、

父の大好きな大相撲の話題や、お気に入りのヘルパーさんのことを尋ねるなど、

別の話題で盛り上げようと頑張っているつもりなのだけど・・・・

 

 

疲れるんだ。

 

家族にも愚痴を言えないからここで吐いてしまうけど、

ネガティブオーラに包まれた父を訪ねるのは、好き放題やってる父より大変。

なんだかもう「生きてる意味がない」とでも言いたげなほどである。

特に「体がだるい・重い」という訴えほど困るものはない。

 

わたしは、家にいるのが大好きで、衣食住が整っているならば、

毎日家にいても全然平気なタイプだ。

外の空気を吸いたくなったら、温かい日に庭で本でも読むくらいで十分幸せだ。

だから・・・・

「酸素引きずっている以外は、身体は動くし自分でお風呂やトイレもできるし、

ヘルパーさんは週2回きてくれる、訪問看護師さんも来てくれる、娘も来る、

家事はすべてやってもらえて家の中は掃除も行き届いているし、何もしなくてもいい」

 

という父の状態が、どうしてそこまで父が自分を「不幸」と思わせるのか

理解できない部分も多い。

でもそこには「人生の終わり」に対する漠然とした不安もあるのだろうなと思う。

まだ50代のわたしでは理解しにくい感覚。

じわじわと自分が弱っていくのを感じているのかなと思うと、

どう励ませばいいのかわからない。

 

そして、おそらくもともと外出や旅行が大好きで、酸素が要らなかったころには

家でじっとしていることのなかったような父にとっては

「自由に出かけられない」という、今の状態は、

気持ちがどんどん滅入っていくほど、つらいことなのかもしれない。

いわゆる健康寿命は終わった・・・くらいのショックを受けているのだろうなと思う。

 

父の思考を代弁するとしたら、たぶん

「これじゃあ、ただ生かされているだけ」

くらいに感じているのだと思う。

健康寿命のボーダーラインは、その人その人の「満足できる水準」がどこであるか?に

よって全く変わってくると思うので、もともと出かけるのがさほど好きではない

インドアタイプの人にとっては、

「頭はしっかりしていて、トイレも自分でいけて、
近くを出歩けるくらいの体力はある」

・・・だけで、十分幸せだと思えるはず。

けれど、父のように家にじっとしているのが嫌いな人にとっては「もう終わった」

となってしまうのだろうなあ・・・・。

 

今日は、お風呂に入る日だったので手伝いに行ったのだけど、

「身体がだるくて動く気がしない。お風呂は今日は入りたくない」と、

退院してからあれほどウキウキしていつも楽しみにしていたお風呂を拒絶された。

 

「春になったら元気になるだろうか?」

「春になったら歩けるようになるだろうか?」

わたしに「大丈夫だよ」と言ってほしがっているかのように何度も言う。

これは身体というより、メンタルだよなぁ・・・と思ったわたし。

このままではウツになってしまうんじゃないかと一瞬頭をよぎる。

 

ちなみに「歩けない」というのは、足腰の問題ではない。

酸素カートの重みで、背中を痛めてしまったので散歩が憂鬱になってしまったのだ。

酸素カードは、キャスターがついているとはいえ、結構な重みがあり

実家付近の道路はアスファルトといってもデコボコと舗装の良くない道なので、

歩くたびにカートがその振動を拾う。それを片方の手でカートを引く・・・という

バランスの悪さも手伝って、背中の慢性的な痛みにつながってしまったようで

これはなかなか頭の痛い問題なのだ。

(カートが原因である証拠に、家の中で手ぶらで歩く分には背中は痛まないという)

 

だから、正直「春になったら歩ける」という種類の話ではないのが本当のところ。

散歩に行けない運動不足を解消するには、リハビリデイが最適に違いないのだけど、

それを勧めるストレス、行ったら行ったで必ず出てくるであろう

不満に対処するストレス・・・それらを想像すると、

今はもう、リハビリデイを勧める気持ちになれないわたし。

 

 

たぶん、わたしがいろいろアイディアを出して、

父を旅行へ連れていく計画でも立てて、父に提案したら、

それだけでぱぁっと父の表情は明るくなると思う。

もう父への頓服は「旅行」の二文字しかないといってもいい。

もしかしたら、父はそれを待っているのかもしれないとも思う。

いつも遠回しに自分の欲求をチラつかせては、わたしが何とか叶えてくれるのを

待っている人だから。

 

ただ正直言って、今の自分にそこまでの親孝行を企画したり動いてあげるだけの

エネルギーがない。

「なんとかして父を旅行に連れて行ってやろう、喜ばせてやらなければ」

というモチベーションは上がってこないのだ。

入院中からこれまで、あまりにいろいろありすぎて、

それがようやく落ち着いたのが今の状態。

 

父には申し訳ないけれど、わたしの希望は

できればこれ以上自分の負担を増やすことなく、

このまま日々穏やかに淡々と自分のやるべきことをして

父の状態も安定して「普通」に暮らすこと。

 

それでいいはずだと自分を納得させながらも、

でも一方で「父の願いを叶えてやらない」ことに罪悪感がつきまとってしょうがない。

 

もっとシンプルに割り切って父と向き合えたら、どれだけ楽だろうになと思う。