酸素があれば無敵?

11月5日月曜日の午後。

 

在宅酸素のレンタルをしてくれる業者さんと、病室で詳しい使い方の説明などを

受ける予定になっていたので病院へ行くと、

病室の前でバッタリ主治医と出会った。

人工呼吸器が外れて以来は、わたしも1日病室にいることはなかったため、

主治医と会うのはずいぶんと久しぶりだった。

主治医は、

「お父様ですが、もうリハビリ以外は特に治療が必要なこともありませんから、

本人も帰りたがっているようですし(笑)いつでも退院していただいて

構いませんよ。」

と言ってくれた。

 

わたしのほうも

「今日、これから業者さんが来て酸素についての説明を受ける予定ですので、

在宅酸素の準備が整い次第、退院しようと思っています。」

 

と伝えて、了承をもらった。

父とも同じような話をしていた。「酸素次第だね。」と。

わたしとしては、今週末くらいの退院をイメージしていた。

酸素の手配をしてもらっている間に、地域包括支援センターのSさんと

認定前の介護サービス利用の段取りなど、打ち合わせようという予定だった。

  

前記事の最後に書いたが、父本人は本当に元気な状態に戻って来た。

が、実はわたしには、ここへきてそれ自体が問題になっていた。

もちろん、元気になってくれるのはとてもいいことなのだが、

父のそれは、あくまでも「酸素吸入あってこその元気」である。

 

確かに父は見た目にはとても元気に回復してきた。

しかし、厳密に言えば、それまで必要のなかった在宅酸素を使うということは、

肺の持病自体は悪化しているということを指しているのだ。

つまり、裏返せば「24時間の酸素吸入がないと命に関わる」ということである。

それなのに、本人はそのことを大きく勘違いしていて

いつのまにか「自分はすっかり健康。酸素さえれば問題なし!」という

妙な自信を手に入れてしまったのだ。

 

在宅酸素は医師の処方箋が必要だ。つまり

医師が酸素の吸入量を決めるので、その指示された量を

吸わなければいけないということである。

よく言われる「良くなったと自己判断して薬を勝手にやめるのはNG」というアレと

同じことが当然酸素にも言えることで・・・

酸素も、きちんと決められた流量を吸わなければいけない。

父の場合、

安静時(座ってるときや寝ている時)1L、

労作時(歩いたりするとき)3L、

の酸素を吸いなさい、という指示がされている。

 

しかし在宅酸素をできればしたくない父は

「調子がよくなってきたら、酸素を減らせばいい」という

トンデモ発言をしている状態。

(もちろんそこはキツく注意したがずっと見張っていられるわけではないので

どうなることやら・・・)

 

在宅酸素デビューなので、今現在は指示されている流量は少ないほうだと思うが、

今後、肺の機能が加齢でも弱まるし、また肺炎をおこすたびに、ダメージを受けて

持病は悪化していくことがわかっている。父の年齢と持病からいって、

「調子が良くなってきたらまた酸素をやめられる」なんていうのは幻想である。

 

肺炎を起こすたびに1段階ずつ吸入する量が増やされていくことは目に見えている。

もっと言えば、今回がそうであったように「次の肺炎で命を落とす」危険だってある。

 

 

しかし。

当の本人が自分のそのリスクを正確には理解していないのである。

説明したらいいのに?と思われるかもだが、今ここに書いたような、

この先起こりうる悪化シナリオを「実は気の小さい父親」に説明するってことは、

命の期限を知らせるようなもの。

そうすると、今すでにわたし自身のキャパはいっぱいいっぱいなのに、

さらに落ち込む父のメンタルのケアまで必要になってとてもやっかいなのだ。

 

だから、あまり悪い話は伝えず、本人が明るく過ごせる方向で環境を整えるほうが

結果的にわたしにも父にもいいことなのである。

 

ただ、最悪の話をオブラートに包んでしまっていることによる弊害は、

わたしが退院後の生活を心配して、あれやこれやと準備しようとすることを

父は煩わしく感じてしまう点である・・・。

 

掃除や洗濯は毎日する必要はないので後回しで全然OKだが、

さしあたって、退院後すぐに困るのは「お風呂」「食事」の問題である。

父はいまだ病棟のシャワーを使っての入浴しかしていないため、

家に帰って自分ひとりでお風呂に入ることができるのか?は、大きな問題だった。

お風呂のお湯につかることは肺に大きな負担がかかるので、

入院前の「無酸素」状態のときは、銭湯で息苦しくなって這うように脱衣場まで

ヨロヨロと歩いていたという本人の自己申告もある。

在宅酸素の扱いにも慣れが必要だし、体力も落ちているし

入ったはいいが、お湯から出られない可能性があるのが不安材料だった。

 

そのため、わたしは介護サービスの(認定前の)前倒しで、

「入浴介助のサービスを利用させてもらわないか?」と

父に提案していたのだが、父はあからさまに面倒くさそうな顔をして

 

「まあ自分でできるかどうかなんて、暮らしてみないとわからない。

お風呂は無理でも、とりあえずシャワーだったらなんとかなるだろう。

だいたいそんなこと、今決めなくたって、

やってみて、無理だったらそのとき考えればいいじゃないか(憮然)」

 

と、介護サービスを受けることに否定的で、

「とにかく退院できる!」という喜びが先走って、現実問題をまるで考えてくれない。

これからどんどん寒くなるというのに「シャワーですませばいい?」だと?

人の三倍くらい寒がりの人が!!!

そして・・・

 

「無理だったらそのとき考えれば」って・・・・。

 

そのときになって、考えるのは誰なのだ?

そのときになって、手続きに奔走するのは誰なのだ?

 

そもそも、

 

なんのために介護申請したのだ?

 

と、父が自分の健康状態を実際よりも過大評価してしまっているために

サービスを利用することに足並みがそろわないことに、ついイラついてしまう。

 

たとえばどこかへ旅行に行くとき・・・・

2つのタイプに分かれると思うのだが、

わたしは事前にホテルの情報まできっちり比べて調べて吟味して決めるし、

どこへ行こうか?あらかじめ1日の行程を決めるし、最適な交通手段や乗り換え

ルートまで、きっちりと調べて決めておかないと落ち着かないタイプだ。

一方で、父は真逆で金額と立地の利便性だけで適当に選んだホテルを予約し、

あとはノープランで、行き当たりばったりを楽しみたいタイプ。

「何が起こるかわからないからおもしろいんじゃないか」と言う。

 

もともとの性格がこんなに違うのだから、退院後の生活設計での

足並みがそろわないのは、当然と言えば当然だった。

 

しかし、「誰にも迷惑をかけない旅行」ならそれでよくても、

年寄りの一人暮らしはそうはいかないし、誰かに助けられないと暮らせないことを

もう少し自覚すべきなのに・・・。

 

どうも最初に介護サービスについて説明した時から、

何か父は誤解しているという、イヤな予感を薄々感じてはいたが

 

おそらく父は訪問介護サービスを

「掃除と食事を作ってくれるお手伝いさんが来てくれる」と、

そんな都合のいい受け取り方をしているのである。

 

だから「入浴の介助をしてもらう」なんて、「介護が必要な老人」がしてもらうことで

父の中では「自分は介護の対象者ではない」という謎の自信をもっているのである。

 

そんな父との意見の相違を感じつつも、水面下では

「酸素の準備を待ちつつ」「その間に介護サービスの準備を整え」

それから退院・・・という段取りで進めようとしていたわたし。

 

ところが、思わぬ誤算が発生した。

それは、その後病室にやってきた業者さんの言葉だった。

 

 

「酸素は明日にでも準備できますよ。退院に時間にあわせて病室まで

お持ちしますから、一緒にご自宅まで行って設置させてもらいます!」

 

という、まさかの迅速対応だったのだ。

 

てっきり、酸素の手配には2~3日かかるものと思っていたのに

とんでもなかった・・・・(汗)

 

 

 

 

父「じゃあ明日の午後にしましょう。」

 

 

 

!!!!!

 

突然、退院が決まってしまった。

焦るわたし。

 

 

内心オロオロしつつも、

承諾せざるをえないムードになってしまった。

先生からはすでに「いつでも退院OKですよ」と言われてしまっている上に

介護サービスを受ける必要性を感じてない父を病院に留めることは不可能だったのだ。

 

まさかの急展開に、わたしは例の地域包括支援センターのSさんのもとへ走った。

 

彼女はもはや完全にわたしの「駆け込み寺的存在」になっていた。