戸惑い。

自分の足で歩いて病院に入れる程度には、状態を保っていたはずの父だったが

入院後に急激に猛威を振るいだした肺炎によって、人工呼吸器を装着するに至った。

 

何度となく、命の危機を告げた医師たち。

わたしも兄弟も、回復を願いながらも

本当のところは完全にそれを覚悟していた。現実を見ていた。

葬儀をどのような形にすればいいのだろう?

一体どこに頼めばいいのだろう?

もう疎遠になっている親類はどこまで知らせるべきか?

ああそうだ、その時が来たら息子も呼び戻さなければいけないんだった・・・

残った実家はどうやって処分すればいいのだろう?

 

なんて薄情な、と思われるかもしれないが

実際、自分が動かなければいけない状況になると、

感情に支配されてばかりはいられない。

20年前、母が亡くなったときには、完全にわたしは泣いているだけの娘だった。

葬儀の準備や手続き、もろもろな事務的なことは当時まだ若かった父と兄が

中心になって動かしていたので、

まだ4歳の幼い息子を抱えたわたしはただ悲しみに浸っていても普通に許されたのだ。

 

しかし今回は違う。わたしが中心になって考えたり動かなければいけない立場である。

父の傍でその手を取り、悲しみ、涙をこぼしても

それが落ち着くと、「もしものときは・・・」と、現実的にやるべきことを

頭の中で考えては、整理していた。

そう。頭の中は感情的な自分と、冷静な自分が混在していて、常に忙しかった。

 

そして、まさに奇跡としかいいようのない大どんでん返しで父は復活してきた。

もちろん、人工呼吸器が外れただけで、酸素が不要なわけではなく、

すぐに簡易マスクがつけられ、5Lの酸素が供給され始めた。

人工呼吸器を装着する直前は、「15Lの酸素でも足らない」と言われていたことを

思えば、その3分の1で呼吸している姿は驚き以外の何物でもなかった。

 

主治医が

「半日くらいは鎮静剤が体内に残るのでしばらくぼんやりしていると思います。

若い人はもっと早いのだけど、高齢者は大抵そのくらいかかるので。」

と言ったとおり、父は鎮静剤を止めたといっても

劇的に意識を取り戻すわけではなく、しばらくは相変わらずウトウトとしていた。

 

わたしはベッドの脇から、父に向って話しかけた。

「わたしのこと、わかる?」と。

父はぼんやりと目を見開いて、コクンとうなづいた。

「ここ、どこかわかる?」と聞くと、首をひねった。

「ここは〇〇病院だよ。お父さん、ずっと入院してたんだよ」とわたしが言うと

 

「へぇ~」と、反応した。

 

実は父はほとんど総入れ歯である。

人工呼吸器を装着している間は、当然入れ歯も外されていた。そのために

絵にかいたような口元しわくちゃなおじいさん顔になっており、

呂律が回らない上に、歯もないことから、余計に父が話す言葉を聞き取るのは

大変だった。

 

 

それから3時間ほど経過し、お昼を回ってきたので父の頭がそろそろクリアになって

くるだろうかと思い、いろいろ話しかけてみるが

相変わらず反応は鈍かった。

そして、何度も定期的に「ここはどこ?」と聞いてきた。

何度も「〇〇病院だよ」「入院してるんだよ」と教えると

その都度「えー?どうして?」と驚き、また時間が経つと同じことを聞いてきた。

 

鎮静剤の投与を止めてから7時間経過した午後4時ごろになって

再び主治医が病室に顔を出し、夕飯から食事を再開していいですよ、

との許可を出してくれた。しかし、こんなぼんやりした状態で

食事ができるのだろうか?とわたしは不安でならなかった。

父は、主治医の先生に何かを言われても、わかってるのかわかっていないのか

焦点の定まらない様子のままだ。

 

なんとなく気になって、主治医が病室を出たあとに、

「お父さん、今の人誰かわかる?」とからかい半分のつもりで笑って聞いてみたところ

 

「さあ。わかりません」と、真顔で言うではないか。

 

急に不安が押し寄せてきて、まさかと思いつつ

「自分の名前、言ってみて?」と、聞くと「わからない」と言う。

 

そして、恐る恐る聞いてみた。

 

「わたしのこと、誰だかわかる?」と。

 

父は、まじまじと私の顔を見つめた後、

ニコニコ笑いながら「わからんなぁ」と言った・・・。

 

もう鎮静剤が抜けるころじゃなかったのか?

 

わたしが想像していた、父の覚醒はもっとドラマチックで感動的なものだった。

 

私「おとうさん、わかる?norakoだよ!」

父「おお・・・norakoか・・・・。お前の声がずっと聞こえていたよ・・・」

 

という、お涙頂戴ドラマのようなそれだ。

しかし、父は人工呼吸器をつけている間のことは覚えていなくて当然としても、

入院したことも、肺炎になったことも、鎮静状態になる前に兄弟と会話したことも

何一つ覚えてはいなかった。

 

とにかく、すべての記憶がなかった。

 

さらに、自分では何一つできなかった。

まだ回復途中で、咳込むたびに口の中に痰が溜まるのだが

それを自分でティッシュにつまんで吐き出すことすらできなかった。

ストローをつけたペットボトルのお茶を飲むこともできなかった。

ストローを吸うだけの力がなかったのだ。

そのため、水分はわたしが水差しで少しずつ与えた。

 

「口の中が気持ち悪い」と訴えるので、

今度はビニール手袋をはめて、父の口の中の掃除もした。

介護用のやわらかいスポンジ状ブラシに水分を含ませて口の中で動かすと、

ネバネバとした口の中の汚いものがそのスポンジに絡まって、

うまい具合に取れることを、

鎮静下で、看護師さんが父にやっているのを見て覚えていたからマネをした。

 

それを洗面台で洗い流し、もう一度口の中にブラシを入れて、また洗い流す・・・

という作業を、口の中のネバネバがなくなるまで何度も繰り返した。

 

また、父は当然記憶にないが、丸4日間ずっと寝たきりだったことで

体のあちこちが痛んでいた様子だったので、

背中にクッションを挟んで何度も体の向きを変えてやるなどした。

 

これは到底、自分で食事などできるはずがない・・・と思い

食事の介助をすることにした。

おそらく、看護師さんに頼めばやってもらえたとは思う。

しかし、ほとんど1日中病院にいる状態が何日も続いていて、看護師さんたちが

どれだけ献身的に父の世話をしてくれたかを見ていたし、また同時に

どれだけ彼女たちが忙しく動き回っているかも知っていたので、

家族で対応できるようなことは、家族がやらないと申し訳ないと思った。

病院は決して介護施設ではない。

看護師さんによるサポートは、あくまでも医療行為の流れの中のひとつであって、

看護師さんは介護のためにいるわけではないはず。

そこははき違えてはいけないと思う。

 

夜になり、夕食が運ばれてきた。

しかし、父はベッドにもたれたままで、自分で体を起こすことが一切できないため、

電動ベッドの上半身を起こし、

ビニール製のエプロンをつけ、わたしがスプーンで食事を口に運んだ。

 

人工呼吸器をつける前にもこうしておかゆをスプーンで食べさせていたが

あのときは、会話が成り立っていたのに対して、今の父は力なくベッドに持たれて

起きているのか眠っているのか、ハッキリしない顔つきで、口元だけ動かすのみだ。

 

そんな状態でも、「自分で食べる」と、父は一旦は言ったが、

スプーンをしっかり握るだけの握力すらなかった。

自分で食べることを覚えたばかりの幼児のようなぎこちない手つきで

スプーンをつかみ、なんとかおかゆをすくい、それを口元に運ぶも、

ガクガクと震える手のせいで、

おかゆは口元に届く前に、ビニールエプロンの上に落ちた。

恐ろしいほどに時間がかかるので、やんわりとあきらめさせ、わたしが少量ずつ

時間をかけて食べさせていた。

 

食事が終わると、父はまたボーーーっとした状態に戻っていった。

ウトウトと眠り始めた父を眺めながら、

私は心の中で完全にうろたえていた。

 

こういう事態は想定していなかった。

 

わたしはこのブログに、きれいごとを書くつもりはない。

正直な自分の気持ちを書きたいと思っているので、あえて言う。

 

父には何とか助かってほしいと思っていた。

眠ったまま、最後にちゃんと言葉も交わせないままに見送ることになったら

わたしはどうやっても心残りになったと思う。間違いなく。

けれど、それと同じくらいに

そのまま亡くなってしまうだろうとも思っていた。

自分の中で覚悟を決めていたのだ。

実際、この数日間は覚悟を求められる状況に違いなかった。

 

だから、こういう展開は考えていなかったのだ。

目覚めた父が、認知症になったかのような状態になっていて

これほどまでに不安定で弱々しい身体になっていることを・・・。

 

もしかしたら、わたしは父を見送るよりもずっと難しい状況に置かれたのではないか?

退院後、この父の生活をどうやって維持したらいいのだろう?

 

頭の中に「介護」という文字が打ち消そうとしても何度も浮かび

それはどんどん大きくなってわたしの頭を埋め尽くした。

 

新たな不安でいっぱいになった。