嫁であり姑。

前回の記事で義母がなくなったことを書いた。

つつがなく葬儀などを済ませたのだけど、そのときにいろいろ感じたことを

書こうと思う。

 

通夜葬儀の時の話はさておき・・・・区切りの法要の日のこと。

週末だったこともあって、遠方に住んでいる息子夫婦もわざわざこのために

2泊3日で帰省して来てくれた。

 

なので、わたしたち夫婦と息子夫婦・・・4人で法要が行われる義実家へ。

何度か書いてある通り、義実家は義両親宅と義兄夫婦宅が敷地内で同居している形。

法要は母屋のほうで行われたけれど、

そこでは義兄嫁であるお義姉さんが忙しく準備に動いていた。

 

集まったのは、わたしたちを含めて計15人くらいだったかな。

なかなかの込み具合である。

法要も結構しっかりと長丁場で、途中で10分ほどの休憩が入ったほど。

 

その10分の休憩時間に、お義姉さんがわざわざ席を立って

集まった親戚の人たちにお茶出しをしはじめた。

 

う・・・・これは、一度で済む人数のお茶出しじゃないぞ。

わたしも手伝わなくちゃいけないんじゃない?

お義姉さんだけにやらせるのはまずくない?

いや、でも、うーん、どうしよう・・・

 

と、ぐずぐずしてしまう自分。

そこで自分でハッとしたのは・・・改めて自分はお義母さんのことよりも

これまでもずっとずっと、つねにお義姉さんのことが苦手だったんだなと。

たぶん、これがお義母さんだったら、特に躊躇することなくさっさと動いたはず。

相手がお義姉さんだから

「手伝わないと、気の利かない次男嫁と思われるんじゃ」

「でも、中途半端に手を出されるとうっとーしがられるんじゃ」

など、いろんなことをゴチャゴチャと考えてしまう。

 

結婚して5年間くらいの間は、私たち夫婦は遠方に住んでいたので

盆正月のたびに義実家に帰省していた。

そのとき、義姉が台所で食事の支度をするたびに、わたしは落ち着かなくて

よく「お手伝いします」と申し出ていたのだけど、

そのたびに「大丈夫だから」と、やんわり断られていた。

それがどうもトラウマ的に自分の頭によぎって、スッと手伝いに動けない。

今思えば、中途半端に料理の手伝いをされるほうがかえって煩わしかったのだと思う。

(誰でも自分のやり方とかルーティンあるし。いちいち支持するほうが面倒なのもわかる)

 

自分の「嫁として」の人生の中で、

いつもその存在にビクビクして委縮してしまうのは義母ではなく、

義兄嫁だった。義姉はよく気が付くし、テキパキと動ける「できたお嫁さん」なので

別に意地悪をされるとか言われるとかされたわけではないれど、

いつも彼女の「圧」みたいなものを感じていた。

優秀な人からにじみ出る「圧」である。

なんでもきちんとこなす人が無意識に発する(本人は気づいていない)「圧」だ。

 

そして、義母の存在が亡くなった今になって、それがより自分の中で鮮明になった。

まるで、義姉がわたしにとっての「姑」みたいに感じられるのだ。

 

で、迷った挙句思い切ってわたしは動かないことにした。

なぜかというと、ふと一緒に連れてきたお嫁さんの存在に気が付いたから。

 

ああそうだ。

わたしはいつもこの家に来るときは「嫁」という気持ちだったけど

今のわたしは「姑」でもあるのだ・・・・!と。

わたしが手伝いに席を立てば、

お嫁さんにも「自分も何か手伝わなければ」と思わせてしまうはず。

 

そして、ここはもう「義両親の家」ではなく、「義兄夫婦の家」も同然。

今日のわたしは自分のお嫁さんを連れてきた「ゲスト」だし、

わたしはお義姉さんの「嫁」ではないのだ。

ここは毅然として、ゲストに徹してしまえばいいのでは?と。

 

本当は間違っているかもしれないけど、そう思うことにした。

義姉の顔色をうかがいながら、ビクビクするのはやめるために。

 

なんてことを考えていたら、

義兄夫婦の二人の息子がすっと席を立って、義姉を手伝い始めた。

 

いいのだ、これでいいはず。

今風な・・・ドライな考え方をすれば

いい年した息子2人がいるのだし、

彼らが母親を手伝ってお茶出しするのはごく自然なことで、

別にお茶出しが女の仕事というわけではないはず(と言いきかせた)。

 

まあ、彼らがすでに結婚していたら・・・

ここはそのお嫁さんたちが手伝ったんだろうな・・・とは思ったけれど、

それは義兄家族の事情だ。

 

でも、「嫁である自分と姑である自分」の両方を考えることを

これまで想定したことがなかったけれど

難しいなあと思った。

けれど、わたしはお嫁さんのことが本当に大好きで、大事にしてあげたいので

彼女が一緒にいるときは「姑」としての自分を優先させたいなと思う。