「後悔」

遅くなりましたが、

今回の父の逝去にたくさんのお悔やみメッセージをいただき

本当にありがとうございました。

本来、おひとりずつお返事を差し上げるべきところですが

お悔やみコメントについては

この場からまとめてのお返事になることをお許しください。

皆さんの温かい言葉は、次へ進むための励みになっています。

 

*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~

 

父の通夜・告別式についての細かい話は、

昔話に終始したりなど、

知らない方が興味を持って読んでもらえるほどの内容はないため、詳細は省きます。

 

ただ、父は「家族葬」にしたので、

実際の家族葬ってどんな感じ?どんな流れで進めたか?という

段取り的な話は、きっと誰かの参考になる点も多いと思うので

改めて後日書こうと思います。

 

今日は、今のわたしがどんな気持ちでいるか・・・

自分語りになってしまいますが、少し書いておこうと思います。

 

父の死期が近づいているとき、

わたしは「その瞬間」に自分がどんな風になるのか

全く想像できていませんでした。

 

母が亡くなったときには、告別式が終わるまで

ほぼずっと泣き続けていた自分。

葬儀が終わって、自宅(当時は県外に住んでいた)に戻っても

家事の合間に、突然スイッチが入って、ボロボロ泣いてしまうくらいには

精神的に不安定な状態でした。

 

ところが

 

父が亡くなってからの自分は、

驚くほどに清々しくあるのです。

それは「気が張っていて悲しむ暇がない」というそれとは違う

身体がいい具合に脱力した、達成感のようなものの気がします。

なんと言ったらいいか、悲しみや寂しさに足を取られて動けなくなるような

そういった精神的な落ち込みは全くありませんでした。

 

前記事にも書いたように、

父の闘病を支えてくれた人たちの顔を見てしまうと涙腺が緩んでしまうけれど

それはその方たちへの「感謝」の思いからであって、

父がいなくなって悲しくて・・・とは別のもののだと感じています。

 

 

その違いは当然「年齢」もあると思うけれど

(母が亡くなったときはまだ30歳くらいと若かったし)

一番はやはり、

「やり切った」と自分で思えていることだと感じます。

 

このブログの中でも、再三「後悔のないように」という言葉を使ってきました。

一方で「どんなにやっても後悔は残るんだろうな」という思いもありました。

 

自分は果たしてどう感じるのかなあ・・・と思っていたわけですが

 

父を看取った後には、不思議なほどにずっと笑顔でいられたのです。

心の動揺はなく、驚くほどに穏やかで

わたしは通夜葬儀の場でも、ほとんど笑顔でいました。

父の闘病のことを知らなかった親戚に、父の病気について話すときですら

笑顔で、凛としていられたと思います。

 

 

それは自分で自分に対して

「わたしはきちんとやり遂げた。娘としての責任を果たすことができたはず」

と、思えることから来ている清々しさかなと感じます。

訃報によって、初めて父の死を知った人に対して

何一つ、負い目を感じることなく父について話せるほどには

自分は頑張ったはずという自負のようなものかもしれません。

 

 

 

わたしは父の介護と看取りに関して

あえて

 

一片の悔いもない。

 

そう言い切りたいと思います。

 

もちろん、もっとわたしが頑張っていたら

父をもう少し長く自宅においてあげられたかもしれない、

もしかしたら、そうしたらあと数か月は生きていたかもしれない

という思いがないと言ったらウソになります。

 

食べられなくなった身体を支えるために点滴で命を繋ぐこともできたと思います。

(父は完全に自然なままで最期を迎えたので、点滴による栄養補給は一切していません。けれどそのおかげで身体に余分な水分が溜まることなく苦痛なくいられました。)

けれど、美食家の父が

口から食べ物を受け付けなくなっているというのに

点滴だけで生命を繋ぐことが、

果たして本当に「父らしい生き方」なのか?と自問自答すれば

答えは即答でNOでした。

 

 

それに、自分が選ばなかった選択肢(最後まで自宅で看るなど)の先にも

必ずそれに付随する別の悩みや葛藤はついて回ったに違いなくて・・・・

それゆえに、「もしあのとき・・・」を考えたらキリがないのだと

今はすっきりと割り切ることができています。

 

人生のどんな場面でも同じだと思いますが

特に親の介護問題では

「選択を迫られる場面」は短いスパンで何度も何度もやってきます。

親の介護度や病気の進行で、優先にするべきことは常に流動的だからです。

 

周囲からは、もっと別の選択肢はなかったの?

ああすればよかったのに・・・と

映るかもしれないし、

中には理想論だけをぶつけてくる身内もいるかもしれません。

けれど、それがベストかどうかを決めるのは、常に直接親の世話を任されている

当事者であればいいのだと思います。 

 

自分が一生懸命に親に尽くした先にある選択肢であれば

そこに後悔など、感じなくていいはずです。

 

傲慢な考えかもしれませんが、

そう思えるくらいには、

父が肺がんの診断を受けてからの、濃密なこの約2年半の父子関係の中で

わたしは学ばせてもらうことができました。

そして、この先の自分の人生、自分の老後を考えるときに生かせるだけの

経験値を高めることができたはず。

 

だから、わたしは声を大にして言いたいと思います。

 

 

「後悔」はひとつもありません、と。

 

 

これが今のわたしの素直な気持ちです。