「今」を生きている。

前回のつぶやき的ブログをUPしたあとに、それを自分で何度も読み返してみて

 

ふと自分で気が付いたことがあった。

 

それは、

「父は昨年の秋の入院時に亡くなったほうが幸せだったんじゃ?」という思い。

 

(わざわざ削除するほどのことでもないので、まあ訂正もせずに残しておきますが)

 

ずっとそういう思いを心のどこかに持ってきたけれど、

自分で書いた文章を、

誰かほかの人が書いたものであるかのようなフラットな気持ちで読んでいたら

 

本当はこれは違うのでは?という自問自答が突然頭に湧き上がって来たのだ。

 

「そのほうが幸せだったのでは?」とわたしが思うのは、「今」があるからだと。

 

あのときはこういう未来は見えていなかったわけだから、

もしも、あのまま父と別れていたら

わたしは結局

 

「もっと早くわたしが異変に気が付くべきだった」

「だますように人工呼吸器をつけて苦しませなければよかった」

「あともう1度くらい旅行に連れて行ってやればよかった」

 

それはもうずーーーーっと、引きずったに違いない。

 

父に苦しい思いをさせてしまったと自分で自分を責めたと思う・・・。

実際には本人は何一つ覚えておらず、本当に深く眠っていただけだったのに。

 

けれど、その「本人は苦しくなかった」はという事実は、

あのときから時間の経過があって、

「今」があり、本人が笑って「何にも覚えてない」と言うのを聞けているから

「眠ったまま逝けたかもしれなかったのか・・・」とつい考えてしまうだけ。

 

 

すべての「たられば」は、「今」があるからなのだ。

 

 

親に関わらず、

家族の病気や生死にかかわることは、結局どうやったって

どんな形になろうとも、一片の後悔なし!というわけにはいかない・・・

 

後悔なんてあって当然なのだ。

 

そうだよね。

もしかしたら、選択を迫られる場面で

別バージョンの人生が用意されていたかもしれないけれど

今更、それを見られるわけじゃないもの。

 

誰にとっても人生の選択肢はいつでも1つで

目の前に、選ぶ道はどれほどたくさん用意されたとしても、選べるのはひとつ。

そして、振り返ったときには1本の道筋しか残っていないのだから。

 

いつだって、自分の歩いてきた足跡と

遠くに置いてきた景色しか、今と比べることができないのだから

「選ぶことのなかった別の選択肢の方向へ進んでいたら

もっと今はいい状態だったんじゃ」

なんて、考えは本当に時間の無駄でしかない。

そんなふうに、湿っぽい感情で過去を振り返っても、今は絶対に変わらない。

今置かれた状況をしっかりと見極めて、

足元をしっかりと見て、進むしかないのだ。うん。

 

 ・・・ということに気が付いた。(遅い!)

 

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そうそう。大事なことを書くことを忘れていたけれど、

父の背中の痛みのこと・・・・

兄弟には先週月曜日の診察のあとについに連絡しました。

「言ってもしょうがない」というのと

背中の痛みとガン進行との関連性については「あくまで自分の憶測だし」という

思いもあって、

自分の思い込みを事実であるかのように兄弟に伝えるのはどうなんだろう?と

考えたのでしばらくガンの経過については知らせずにいたけれど。

 

けれど、今回ああいう形でも主治医から

「ガンが原因の可能性が高い」と指摘されたことで

「医者がこう言ってる」という言い方もできる状態になったし、

これはもう現状をそのまま報告する時期なのかな・・・と。

 

兄弟の反応はいたって冷静なものでした。

 

弟なんかは、

「僕もガンのせいじゃないかと思ってたよ。お母さんも痛がってたもんね。」

とか言い出して。

 

けれど、同時に今になって

「旅行中に激痛が出たらどうしたらいいの?(オロオロ)」と

しつこく対処法を聞いてくるので、まったくコイツはぁ~!・・・だったけど(汗)

(だ~か~ら、わたしはこの間、

”痛みがかなりひどいから前日に注射を打てる日程に変えられないか?”

と相談したんですけどねえ~・・・。)

 

兄のほうは安定の「了解しました。お疲れ様です。」のみ。

業務連絡かよ、みたいな。

 

まあ、兄は昔から「先のことは考えてもしょうがない。」という、

良くも悪くもあまり物事に動じないドライなタイプであることは承知なので

 

想定内です。

 

 

今日はとても気分がいい。