薄っぺらい覚悟。

一体、父の体の中にどんな変化が起きたのか?

知る由もなく・・・

本当に突然に、見守るしかできない状況になってしまった。

 

「徘徊」が悩ましかったのは、ほんの数日前のこと。

それが2日前の転倒を境に、崖から落ちたかのように父の様子は変わってしまった。

  

父の状態は・・・というと、

1日ほとんど眠っているようになった。

声をかければ起きるし、わたしや看護師さんの言っていることも通じている。

けれど、言葉を発しようとしてもうまく声にならず、

その声は小さくか細いものなので、何を言っているかなかなか聞き取れない。

 

自力で立てなくなった。まだかろうじてトイレには行っているが、

看護師さんの介助によって

車椅子を使って、トイレまでのわずかな距離を移動する。

 

食事を自分で摂れなくなった。

手が小刻みに震えてに力が入らないので、

うまくお椀やスプーンで食べ物をすくって口に運ぶ・・・

という、健常者にはどうってことのないはずの動作ができなくなったからだ。

 

目を開いているときは、ボーっと窓の外や天井の一点を見つめ続けて

わたしが話しかけない限り、どこか別の世界へ行ってしまっているように見える。

 

わたしは、父を眠らせないように、話をさせようと

必死に大好きな相撲中継を大音量で見せて、話しかけ続ける。

「いまの取組はどうでしたか?」

「この取り組みはどっちが勝つでしょうかねえ?」

など、おどけて解説を求めてみたり・・・と。

 

不思議なことに、こんな状況にあっても

大好きな相撲中継のときだけは、父の脳も精いっぱい動くようで

小さなたどたどしい声ではあるけれど、元気な時ど同様に持論を語る。

けれど、相撲中継が終わると・・・にわかに動いていた脳の動きを止めて

スリープ状態に戻ってしまう。

 

その・・・父を唯一覚醒できることができた大相撲も今日で終わってしまい

明日からはどうしようか?と頭を抱えている。

 

食事はたいてい「要らない」と言う。

でも、少しだけでも食べようよ・・・!と促し、スプーンを口に運ぶと

ちゃんと食べてくれる。

それでも食が進まないときには、病室の冷蔵庫にストックしてある

メイバランスを取り出して、

「じゃあこれ頑張って飲もうよ」と飲ませたり・・・。

ここは、「食べられない」ことも受け入れる病棟なのに

父が食べられないことに「なんとか食べさせなければ」とつい考えてしまう。

 

 表面的に平静を保ちつつ、本当は心の中では

父の様子に一喜一憂して、

弱々しい姿になっていく父を、せめて自宅にいたころの状態に戻したい・・・と

必死で抗っている自分はなんなんだ?とあきれる。

 

結局・・・わたしの中には、父が1日1日・・・と、

緩やかに弱っていく姿の映像は思い浮かんでいなかったのだ。

けれど、親を看取るときに、一番覚悟が必要なのは実はその部分だ。

目をそらさずに、抗わず、ありのままを見守る覚悟。

 

ある夜のこと・・・、急に動けなくなった父を前にして、

自分の言いようのない不安を夜勤の看護師さんに吐露していたときに、

彼女が優しく言った。

 

「でも、お父様は苦しそうな顔もせず眠っていらっしゃいますから。

痛みや苦痛がないことが、一番大事ですよ。」

 

と。

 

その言葉を聞いて、わたしはハっとさせられた。

自分は口先だけでは「緩和ケア」を理解しているなんて言ってても

実のところ、自分は何一つ覚悟ができていなかったのだ。

 

ここは「元気になってもらう場所」ではないのだ。

その人が痛みなく、苦しさもなく、穏やかに過ごせることを大事にする場所なのだ。

旅立ちの準備を整えるかのように、少しずつ肉体を枯らしていく患者を

優しく見守り、準備ができるのを一緒に待ってあげる場所なのだ。

 

今のわたしにとって必要な「覚悟」とは

本当の意味で、弱っていく父から目をそらさずに、受けとめること。

これから先の父は、わたしが今まで見たことのなかった父になっていくこと。

別れの日は、自分が思っていた以上に近かったり、

また「徘徊」や「転倒」などと同じように、

まさかそんなわけが・・・と思っているタイミングで

突然知らせが届く可能性もあること・・・だ。

 

けれど、まだわたしは

ようやくその大事なことに気が付いたばかり。

これから本当の意味でしっかりと・・・

少しずつ枯れていく父をそのまま受け入れて、

そして父を手放す覚悟を固めていかなければと思う。

 

だから

 

どうかそれまであともう少しだけ

父には遠くへ行かないでいてほしい。

 

 わたしにもちゃんと準備ができるまで。