「通い介護」という選択。

父の介護申請をしてから、定期的に何度も頭に浮かんでは

自分で打ち消している思いがある。

それは、「自分は本当は父を引き取って同居すべきなのでは?」という迷いだ。

 

これが自分の友人の話だったら

「無理に同居なんてしないほうがいいよ。自分がダメになっちゃうよ。」と

迷いなく助言する。それなのに、

いざ自分のこととなると、どうしてもこうも罪悪感がつきまとうのだろう?

 

実は主治医から電話で、父の在宅酸素について説明を受けた時、

主治医から

「退院後はどうされるんですか?同居されるんですか?」

と尋ねられた。

もちろん、それは”在宅酸素”という問題に照らし合わせれば当然の質問だった。

 

わたしはなんとなく言いづらい気持ちを感じながら

「一応、今までどおり一人暮らしを続ける予定です。」

と、答えた。

この”言いづらい”と感じた気持ち、それこそが罪悪感の表れだ。

 

わたしのその隠したいはずの罪悪感に追い打ちをかけるように、

主治医は「うーん、ひとりで食事とかは大丈夫ですか?火気厳禁になりますが」と

さらに続けた。

 

「食事はこれまでもIHを使っていたので大丈夫です。

介護申請をしているので、それが通ればヘルパーさんに来ていただけることになりますし、もちろんわたしも通って手伝います。」

 

と、まるで言い訳をするかのように主治医に説明すると、

「まあ、それならなんとかやっていけそうですね。」と言ってくれた。

 

 

高齢者で、要介護(まだ決まっていないが)で、在宅酸素で・・・

その娘は車で25分程度のところに住んでいるのに、なぜ引き取らないんだ?

なぜ同居していあげないんだ?

周りからそう思われているんじゃないかと、つい考えてしまうこともある。

特に、父の家のご近所さんたちからはそんなふうに思われているかもしれない・・・。

(私とは何のしがらみもない人たちなので、気にしないようにしているが)

 

でも、どうやって前向きになろうとしても、同居だけは無理なのだ。

同居をするということは、24時間、自分の家に父親がいるということだ。

もともと、父とものすごく気が合うとか、父のことが大好きとか、

そういう娘ではなく、あくまで父親を放ってはおけない・・・という、

「娘としての務め」という気持ちに突き動かされて支えているだけで、

父と一つ屋根の下に暮らしたら、わたしはきっと自分を保てなくなると思う。

 

実は、ここまでほとんど話題にしてこなかったが、わたしの夫は

「お義父さん、うちで引き取ったほうがいいんじゃないか?」と言ってくれた。

「オレは別にいいよ」と。

 

その気持ちは素直にありがたいと少しだけ思ったが、わたしが頑なに拒否した。

”少しだけ”というところがポイントなのだけど、

夫はほぼ、深い考えなしに「同居」という話をしているのだ。

それは、これまで長く夫婦をしてきただけに、よくわかる。

夫は「いいよ」とは言ってくれても、わたしを助けるつもりはない。

義父が同居しても、自分の生活には何の影響もなくて、何も変わらないと思ってる

想像力の働かない人だから仕方ない・・・。

あくまでも、

「毎日お義父さんのところ通うの大変だろ?同居したほうが楽なんじゃない?」

という、その程度の発想なのだ。

 

つまり、看護をするのはあくまでもわたしの役目。

 

たとえば父の入浴介助をしてくれるわけでもなければ、わたしの家事をフォロー

するようなことも決してない。

そんな覚悟がないからからこそ、安易に「同居でもいいよ」と言えるのだ。

 

仮に父を我が家に引き取っても、夫の世話と父の世話・・・わたしの

体力的な負担は2倍3倍となり、精神的な負担はおそらく天井知らずになるだろう。

きっと、わたしは夫と父の間に入って、双方が気疲れしてしまわないように、

あっちにこっちにいい顔して、間違いなく神経をすり減らす。

父の相手をしながら。父の身の回りの世話をしながら。

そして夫の食事を作りながら。評論家ばりに食にうるさい父親の食事と、

好みの全く違う夫の食事を別々に作らなければいけないだろう。

趣味の英語の勉強も、家では一切できなくなる。

昼間、父親と1日二人きりで過ごせというのか?

 

出かけるときにはいちいち父に「〇時ごろには帰るから」と言うことにもなるだろう。

わたしの自由はどこにもなくなってしまう・・・。

 

「通い介護」であれば、

わたしは仮に自分の時間が1日にたった3時間しか持てないとしても、

その時間を父とは切り離された「自宅」に戻って過ごすことで

少しでも気持ちのリフレッシュができる。

 

しかし、これが同居となると

その3時間は「父のいる自宅から逃げてどこか別の場所」に退避して、

自分の時間をつくりリフレッシュを図る以外方法がなくなる。

一番落ち着けて、休息できるはずの自宅が、

同居になってしまったら、心休まる場所ではなくなってしまうことになるに違いない。

 

想像しただけでも、窒息しそうな生活しか頭に浮かばない。

だから、何もわかっていない夫にキッパリと言った。

「ありがとう。でも、お父さんと同居したら、わたしはきっと壊れるから。」と。

 

ずっとずっと先のことはわからない。

けれど、わたしはできうる限り「通い介護」を貫こうと思っている。

 

仮に父の状態が今よりも悪化して、より見守りが必要な状態になったとしても

同居は絶対にしないと心に決めている。

もしも、将来要介護度が進んだときや、父の体調が思わしくないときには、

あくまでも「引き取る」ではなく、必要なだけ

「わたしが父の家に泊まり込む」という方法で対処しようと思っている。

何日か続けて父の家で過ごすことになったとしても、

または何か月もそんな状態が続くことになったとしても、

「1日1度”自宅に帰る”時間が、自分のリフレッシュになる」 と思うから。

 

そうやって、あくまでもわたしの場合は・・・

「自分にとっての安全地帯」として、心身を落ち着かせる場所として、

自宅を父とは切り離して残しておかないと

これから始まる父の生活はとてもフォローしていけないと思う。

 

中途半端に近い距離だし、夫の両親の面倒を看る立場にはないことから

周囲からは「同居はしないの?」という素朴は疑問は

これから先も、折に触れて誰かに聞かれるかもしれないけれど、

 

今のこの距離感を保つことによって、わたしは父に優しくできるし

この先も、細く長く父の「老い」を支えていく心の余裕が持てると思う。

 

わたしのしていることは、あくまで「お手伝い」レベルであって、

介護だなんて言えるほどのことは何もしていないけれど・・・

さらに先の将来のことを考えるからこそ、今のこの距離感を大事にしたいと思う。

 

親の介護や看護に「正解」はないはず。

みんな条件が違うし、介護するものされるもの・・・の性格なども違うわけだし。

 

だから、「通い看護」に引け目や罪悪感を感じないように、

「わたしはわたしのやり方で親を看る」という気持ちを貫きたい。

 

そして一定の距離感を保ちながら、

その中で、自分がどれだけのことができるか?を、

介護保険の力を借りながら、

問題にぶつかる都度、考えていけたらいいんじゃないかと思う。