続・温度差

その日、地域包括支援センターのSさんに今後のことを相談したあと、

わたしは再び父のいる病室に戻った。

 

夕飯が運ばれてくるまでの間、父の状態を探る目的でいろんなことを話しかけてみた。

すると、

お昼ごろとはかなり表情も動作も違っていることに気が付く。

 

つまり、会話が噛み合ってきたのだ。

 

「ちょっとタブレットを取ってくれ」と言うので手渡すと

両手でしっかりと握って、何やらネットを見ている。

昨日の今頃は、自分で持つこともできず、

また「これは重いねぇ。どうしてこんなに重いの?」と、まるでタブレット

初めて持ったかのような驚いた顔を見せていたのに、今はしっかりと指で画面を

スクロールし、目で文字を追っているではないか。

 

「お父さん、自分の名前言える?」と聞いてみると、

「お前、お父さんのことをバカにしているな?」といたずらっぽくニヤニヤと

笑いながらロバート・デ・ニーロです。」と、言った。

ここは笑ってあげるところである。このお茶目さは、父が父である証だった。

 

父が戻ってきた・・・・!

 

その後も、いろんな話題を振ってみたが、ちゃんと理解した。

人工呼吸器を装着する前の錯乱状態から、目覚めたところまでの記憶は

完全になかったが、

「熱を出してかかりつけのクリニックへ行ったら、

〇〇先生に”入院しなさい”と言われたから入院した。」

というところまではだいたい思い出していた。

 

主治医は「鎮静剤が抜けるのに半日かかる」と言ったが、

結果的に父の場合は36時間ほどかけてようやく薬が抜けたことになる。

個人差なのだろうが、ずいぶんと長い時間かかったな・・・。

 

この間、どれほどわたしが不安だったことか。

 

薬の影響がなくなっても、入院してからずっと1週間ずっと寝たきり状態だったこと、

そして重度の肺炎の影響で心肺機能自体がおそろしく低下していることで、

身体全体はまだまだ弱々しかった。

動きは相変わらずスローモーションだったが、握力などは少しずつ戻ってきて

夕飯にはなんとか自分で器をもって、おかゆを食べることも出来るまでになった。

身体の末端のほうから順番に・・・という感じで力が戻って来た様子だった。

 

ようやく・・・本当にここでようやく回復へのスタートラインに立った気がした。

 

ここで、話は午前中にわたしが地域包括支援センターで相談を受ける前・・・

担当のSさんの予定が空くまで時間をつぶしていたときまで遡る。

 

前記事にも書いた通り、わたしはその時点で

父が死ぬかもしれなかった時とは違う、別の大きな不安の渦の中にいた。

父の食事介助をしなければいけない状況。

口の中の痰を取り除き、口の中の洗浄をしてやり、うがいをさせる。

誤嚥に気を付けながら、何種類もある薬を少しずつ飲ませる。

まさか父親の入れ歯を歯ブラシで磨いてやることになるなんて思わなかった。

 

水が飲みたいという父に水差しで飲ませ、体の向きを変え、

脈絡のない会話の相手を続け、おかしなことを言っても指摘せず笑って受け流し

頭が混乱していて自分の状況を理解していないため、柵から降りようともがくのを

落ち着かせ、酸素マスクを外してしまうことを怒らないように制する。

 

何の心の準備もないままに、突然身の回りの世話をしなければいけない状況になり

気持ちがついていかなかったのだ。

 

 

相談員さんを待つ間、そんな不安な状況分かってほしくて、

LINEで兄弟に知らせていた。

 

 

ところが、二人の反応はこうだった。

 

弟「あんまり悲観的なこと考えるのやめようよ。考えると病んでくるし。」

兄「まあ大丈夫なんじゃないの?」

 

怒りがこみあげた。

「考えたくない」とか「考えてもしょうがない」っていうのは、

今目の前にいる親の面倒を見なくていい立場の人間だから言えることだ。

  

父の状態がどんなに悪くなろうとも、「遠いし」「仕事があるし」を免罪符に

何もしなくていい遠方の兄弟。

自分たちの生活には何の影響もないから、

自分の気持ちひとつで、イヤなことから目をそらすことができる。

わたしがこうしてLINEで病状を知らせることをやめれば、

悲観的な事実は、いつでもなかったことにできるのだ。実にうらやましい立場だ。

 

さらに弟は言った。

 

弟「いざとなったら施設しかないんじゃない?かわいそうだけど。」

 「介護保険も使ったほうがいいよ」

 

離れたところにいる兄弟というのは、

よくこうやって、言われなくてもわかっているようなありきたりな提案だけは

良かれと思ってか、してくれる。

それも「お姉ちゃんのためにも」という、”優しい”言葉を付け加えて。

 

じゃあ聞くけれど、仮に施設に入れるとして、

それを探すのは誰?手続きするのは誰だ窓口になって動くのは一体誰なんだ?

介護保険について相談に行くのは誰?

介護申請のために役所へ行くのは誰?調査に立ち会うのは誰?

まさか電話一本で介護サービスが受けられるようになるとでも?

 

「施設に入れるべき」「介護保険使えば?」「お姉ちゃんのため」

と提案してくれるのであれば、トータルパッケージで手続きすべてやってくれ。

 

自分たちは、何もやらなくていい安全地帯に身を置いたまま、

そこから出てくる気や実務をフォローする気は一切ないくせに

口だけ「ああすればいいのに」「こうすればいいのに」と正論を語ろうとする兄弟ほど

やっかいな存在はないと思う。

 

彼らは「僕らにできることはいつでも言って」と耳障りのいいことを言ってくれるが

それは実際のところ、「できること」ではなく「やってあげてもいいこと」にしか

手は貸してくれない、上から目線な言葉だとも思う。

  

 

この日の夜、帰宅した後に

 

「あれからお父さん、劇的に回復して記憶が戻って来て、

夕飯もまだゆっくりだけど、自分で食べることができました。」

 

と、兄弟LINEに送信した。

 

すると、弟からこんな返信が来た。

 

「へ~よかったじゃん!元気になったのなら、顔を見に行こうかな♪

この間みたいな、つらそうなのは見てられないからさ。」

 

”元気になったのなら”????

 

兄も次の週末に様子を見に来ると言った。兄は遠方なので

 

「泊まっていくの?」と聞いたところ

 

「お父さんの調子がいいなら、長時間(父と過ごすのは)はキツイから日帰りにする」

 

との返事。

 

二人とも、あまりに好き勝手なことを言ってて

なんだかむなしくなった。

 

わたしは毎日必ず病院へ行かなければならないのだが?

「調子がよさそうだったら顔出そう」とか

「長い時間一緒にいると疲れるから帰ろう」とか

そんなことはできないのだが?

  

こうやって、親問題を通して

兄弟の間に少しずつ見えない溝が出来ていくのは悲しい。

わたしは人間が出来ていないので、

「不公平感」がどうしても心の奥から湧き上がってきてしまうのだ。

とはいえ、まだここに吐き出しているような自分の気持ちを本人たちに一度も

ぶつけたことはないし、たぶんこれからも言えない。

そういう性格だから。

 

険悪な雰囲気になるのがイヤだし、「それを言ってもどうにもならない」と

わかっていることは、いつでも逃げ越しになって、

言いたいことを溜め込んで、我慢してしまう自分。

 

 

お互いを気まずくさせることにしかならない・・・と。

 

 

兄弟は一切アテにするな。

 

この気持ちを明確にできたことは

今回の父の入院で得た、皮肉な収穫だった。