弁当ストレス。

父の体調は、とりあえずこの7月中では一番マシな状態になったかもしれない。

薬の飲みすぎによる、傾眠もなくなった。

その傾眠状態からくるせん妄や見当識障害のような症状も治まり

服薬管理も、多少の間違いはあるものの

(薬を取り出すポケットの曜日を間違えるなど)

一時期のように「痛み止めの頓服を飲んだかどうかすら覚えていない」

という状況ではなくなり、

会話はだいたい正確に成り立っている。

 

体力自体はガタ落ちのようで、退院してからまだ1度も外出をしていない。

 

GW明けたころから、毎週土曜日はほとんど買い物に連れ出していたけれど

今は、どこかへ連れて行く・・・という話にならない。

父本人にも、たかがスーパーへ出かける体力もないことを自覚している様子。

 

体力がないことを覗いては、体調は安定してきたけれど、

これが「ああよかったね」とならないのが父。

 

頭が回るようになってくると、今度は不平不満たらたらになるからだ。

 

体調が悪い時も大変も、精神がゴリゴリ削られるけれど、

しゃべる元気が戻ってくると

今度はわがままが止まらなくてやっぱりゴリゴリ削られる。

 

ところで、ヘルパーさんが訪問してくれたときには介護日誌を、

看護師さんが訪問してくれたときには看護日誌を、

それぞれ据え置きのファイルに綴じて行ってくれるので

わたしは父のところへ行くたびにそれに目を通すのだけど、

そこには、父の言ったことが逐一記録されている。

(たぶん、父は知らないだろう。字が小さくて父には読めないので読もうと思ったこともないはず)

 

それを読んでは・・・・ゲンナリする。

ヘルパーさんの介護日誌には、

ここのところ、毎回毎回、

「お昼ご飯を食べていらっしゃいませんでした。全部捨ててくれとのことでしたので

片付けさせていただきました。」

「お昼ご飯を食べていらっしゃいませんでした。全部捨ててくれとのことでしたので

片付けさせていただきました。」

と、同じ文言が続いていて・・・・もう恥ずかしくてたまらない。

 

何のために弁当を配達してもらってるんだろう?と疑問に思われていないだろうか?

お弁当を食べないのなら、娘さんは何かほかの食べ物を用意したほうがいいのでは?

とか思われていないだろうか・・・?など、悪い想像をしてしまう。

 

看護師さんによる看護日誌のほうはもっとひどかった。

以下、看護日誌に書かれていた父の発言・・・。

「食欲がない。食べ物を見るのも嫌だ」

「吐き気が治まらないのは薬が合っていないせいだ」←初耳

「薬を飲んでるのに吐き気が止まらないのだから」←初耳

「痛み止めは効いてる気がしない」←初耳

「飲むと吐き気が出る気がするから飲まないようにしてる」? 

「退院する2日前から何も食べられなくなった」←初耳

「これは脱水症状だと思う」←初耳

そして、わたしがわざわざ病院で追加をもらってきた吐き気止めについて

昼の分を飲んでいなかったようで看護師さんが促すと

「これは私と娘でやってるから。別に飲まなくていいから」

と、よくわからないことを言って飲むのを拒んだらしい・・・。

 

この看護日誌が書かれた日は、父の吐き気止めをわざわざ病院まで

追加でもらいに行った日で・・・・

その日の朝だって「吐き気はないよ」と表情もとても明るかったのに・・・。

(この頃は父の目を見れば体調がわかるので体調が落ち着いてたのは確か)

 

わたしが病院に追加の薬をもらいに行っている一方で

「薬が合ってない」とか「別に飲まなくてもいい」とか

「食べ物を見るのも嫌」とか

そんな極端な話ばかり並べたてていたのかと思うと脱力感しかない。

 

 

父には話の一貫性がない。

あまのじゃくなのか・・・?ナゾだけど

人から聞かれたことに対してどうもいつも否定で返す傾向がある。

だから、言うことがコロコロ変わる。相手によっても変わる。

ついさっき言ってたことと違うじゃん・・・!と言うことが日常茶飯事。

 

来月、父はつい80歳の大台に乗る。

世の中の80歳って、皆こんなに面倒くさいのだろうか???

皆こんなに取り扱い注意なのだろうか???

 

父の扱いの難しさは、そこらへんの高齢者には絶対負けない自信があるよ、ほんと。

(悲しい自慢)

 

今日もいろいろと注文を付けられた。

あれがほしい、これがほしい。

こういうものを探してきてほしい・・・・etc.

そして、配食弁当は「まずいから食べる気がしない」と

もうハッキリ言うようになった父。

つまり、今はもう食欲がないんじゃない、選り好みしているだけ。

 

でも、「不味いから食べない。全部捨ててくれ」と簡単に言うのは、

それを食べなくても、代わりのものを娘に頼めば用意してくれると知っているから。

あれ買ってきて、これ買ってきてと、

注文すれば何でも探して買ってきてくれる、便利な娘がいる。

 

 

おそらく今父に、

「もう食べないなら、お弁当頼むのやめようか?」とわたしが言ったら

 

「やめていいよ」

 

と間違いなくあっさり言うと思う。

だって、「不味いから食べたくない」と思っているわけだから。

 

でも、それがわかっていても、食べないとわかっていても

配食サービスはやめられない。

もうやめたら後がないのだ。なんといっても今のところで3軒目。

(前の2軒も、結局「まずい」と言って辞めた)

もう市内でほかに配達してくれるところはない。

 

だから、それをやめるということは 

毎日3食分の食事の提供を、わたしが考えなくてはいけなくなることを意味している。

 

それは、今以上に大きな大きな負担の増加で・・・

現時点でこれ以上自分の負担が増えることは考えられない。

 

けれど、お弁当を配達してもらっている以上は・・・

たとえそれが毎食すべて廃棄されようとも・・・・

「食べる・食べないは父の自己責任」と、責任を負わずにいられる。

 

廃棄することにわたしばかりがひどい罪悪感を感じてしまっているけれど

自分を守るために、そういうところへ逃げてしまってる。

 

父を怒らせないようにと言葉を選びながらも

 

「(お弁当を)体調が悪くて食べられないのはしょうがないけれど、

まずいからとか、口に合わないから食べない・・・というのはやめて。

出来るだけ頑張って食べてね。」

 

と、父に食べるよう促した。 

すると父がこう言い返してきた。

 

「お前のように、3食好きなものを腹いっぱい食べられる人間に
俺の気持ちはわからんよ。」

 

 

わたしが3食好きなものを腹いっぱい食べてるって?

わたしがそんなに毎日能天気に暮らしていると思っているのか?

この1か月、朝起きるたびに

「ああ今日もまた行かなければ」と考えては喉の奥が詰まって

吐き気がして、胃痛がして、食事がおいしいと思った日なんてないのに。

 

そして、そんな言葉を吐いたあとで

 

「ああ、明日も来るんだろ?明日来るときに〇〇買ってきてくれ」

 

と続ける父。

 

必要に迫られて、仕方なく今月は毎日の父のところへ通って来たけれど

もう毎日来ること自体、父から当たり前と思われ始めている。

 

疲れた・・・ホントに。

 

父親のことを一切考えなくていい時間が欲しい。