豪華なお墓と大きな仏壇。

すこし前のことになりますが、先日お彼岸のときに

ひとりで母のお墓参りに行ってきました。

母のお墓は私の自宅から車で30分くらい。もう少しマメに行くべきなのに

ついつい日々の自分の生活を優先してしまいがちなせいで、月に1度が精いっぱい。

「お母さん、全然来なくてごめんね」と、いつも苦笑いしながらお墓の前で

手を合わせています。

 

そんな自分のことを棚に上げて言うのもどうかという感じですが

この頃気になっているのが、どうやら父はもうここ2~3年、

ずいぶんと母のお墓に足を運んでいないであろうこと。わたしが行くと、自分が

挿して行った花が、そのまま枯れた状態で残っているので、それを見て

「ああ、父は来てないんだな」とわかるのです。

 

わたしが行くときに声をかければ、一緒に行けるのでしょうが

それはわたしがイヤなので避けてしまう・・・。

 

今年で、母が亡くなってもう20年も経つのですが

いまだにわたしは家族と母の話をすることができません。

なんというか、とってつけたような言葉で母のことを偲んだりする気持ちには

なれないから。

 

実は、母が意識をなくす直前の最後の数時間を一緒に過ごしたのは私だけでした。

最後の言葉を交わしたのも、かろうじて意識のある母の最後の姿がどうだったのかを

知ってるのもわたしだけ・・・。

でも母の闘病生活は壮絶すぎたので・・・わたしはそれを誰かにそれを話すと

たぶん、今でも泣いてしまうと思うので、ずーっと心に蓋をしている感じなのです。

なので、家族と母との思い出話をすることも自分からは絶対にないし

そういう理由で、お墓参りも出来る限り1人で行くと決めているんですね。

母と”2人きり”で静かに話をしたいから。

 

でも、父の足が年とともにお墓から遠ざかることになんとも言えない複雑な

気持ちになります。

父の家からお墓までは車でわずか10分。駐車場から100mくらい歩くだけなので

体力的な問題でもないはず。

父が行かなくなった理由は、ただたんに年齢のせいでいろんなことが

「めんどくさく」なってきただけだろうなあ・・・と思います。

 

とはいえ、父は母のお墓を建てた時、そのお墓にいかにお金をかけたか?

いかにいい墓石を使っているか?砂利さえお金をかけて、周りのお墓とはちょっと

輝きが違うだろう?ということを、とても誇らしげにわたしに聞かせた

あれはいったいなんだったんだ?と思わずにいられません。

 

それはお墓だけではありません。仏壇もそう。

いわゆる、仏間にぴったりはまりこむ冷蔵庫みたいな大きな仏壇を購入しました。

恐ろしいので値段は聞いていませんが、

ここにも相当お金をかけているものと思います。

 

しかし、そのお仏壇が現在どうなっているかと言えば・・・・

雨戸を締め切り、ふすまも締め切った「開かずの間」になってしまっています。

 

そのことを指摘すると、父は自分が責められていると思い、逆ギレする可能性が

高いので、わたしも兄弟もそのことを見て見ぬふりしている感じ。

 

決してお金の問題ではなく、気持ちの問題ではあるのですが

豪華なお墓と大きな仏壇。この2つに一体何百万かけたんだろうと思うと・・・

なんだかモヤモヤした気持ちになります。

こんな扱いにしてしまうのだったら・・・

そんな豪華さは必要なかったんじゃないのかなあ・・・とか。

今思えば、父はとても見栄っ張りな人なので、

「お墓や仏壇にお金をかける=妻への愛情が深いことの表れ」

そんなふうに考えていたのだと思います。

でもそれって、誰かに対するアピールのように思います。親戚だったり

お経をあげてくれるお寺さんだったりに対しての。

亡くなったばかりで、感情で物事を決めていた可能性もあります。

 

ですが、母は派手なことが嫌いな人なので、

そんな豪華なものは望んでなかった気がするのですけどね。

 

お墓はともかく・・・・

仏壇に関しては、あのドでかい仏壇は父が亡くなった後、どうすればいいのだろう?

といつも考えます。

わたしが引き取るといっても、大きすぎて置く場所がありません(汗)

 

なので、おそらく現実的な問題から、仏壇を小さいものに買い替えることになるだろう

なあと思っています。(宗教的になこと、手続き的なことは全く調べていませんが)

 

こういうことを目の当たりにすると

改めて自分にはお墓は要らないし、なんなら仏壇もいらないなあって思います。

だって、そういうものを残してもらいたいと思うことは、子供に負担を残すことだし。

 

お墓といい、お仏壇といい

そんなことも、だんだんと現実的に

「自分はどうしたい?」って考える年齢になってきた気がします。