本気度の問題。

7月に英検1級に合格して以来、4カ月ほどマイペースな感じで

まったりと英語の勉強を続けていたけれど、最近また勉強熱が沸き上がってきた。

 

我ながら、よくもまあ・・・この歳にして勉強というものに

こんな情熱が注げるものだとちょっと引いたところから自分を見ては苦笑いする。

「年齢なんて関係ない!いつからでも始められる!」みたいな

ちょっと暑苦しい言葉を自分で自分に投げかけて鼓舞している・・・というより

本当に、単純にずっとやりたかったことを思う存分にやっているだけだ。

 

ブログの中でも何度となく触れてきた自分語りだけれど、

わたしはお金がなくて大学に行けなかった。

正確には実家にお金がなくて・・・だけど。

2つ年上の兄が浪人していたし、

母は祖母の自宅介護のためにパートの仕事を辞めなくちゃいけなかったので

(今のような介護保険のない時代だった)

収入は減っているのは明らかだった。

家計が苦しいのはよくわかっていたから、

「大学に行きたい」とはとても言えなかった。

介護でパートに行けなくなった母が内職しているのを見て、

「うちはそんなにお金がないのか・・・」ということを察したわたしは、

「わたし、進学せずに働くことにしたから。」と自分から母に言った。

それを聞いた母が「そうしてくれると助かる」と

ホッとしたような笑顔になっていたのをよく覚えている。

 

それから数十年、ずーーーっと自分の心の中では

「大学へ行きたくても行けなかった」という思いがくすぶっていたけれど

それは別に、「行かせてもらえなかった」という

お金がなかったことや、親に対する恨みつらみ的なものとかでは全然なくて

ただただ、「みんなが当たり前に進めた進路に自分は進めなかったんだ」という

周りと同じ経験ができなかったことに対する寂しさや恥ずかしさのようなものが

一番強かった気がする。

 

でも今、こうしてこんな年齢になって、目標をもって勉強してみて初めて分かる。

 

「大学へ行けなかった」「行かせてもらえなかった」だなんて、

まるで自分のことをかわいそうだったかのように言うのはおかしいことだなって。

あの当時、わたしが大学へ行きたかったのはなぜだ?

実のところ、大学へ行きたかった理由はものすごくぼんやりとしていて

モラトリアム的な理由だったんじゃないのか?

みんなと同じがよかった・・・という、そこだったんじゃないのか?

という自問自答。

 

だって、自分の高校時代を振り返ってみても、

どう考えても必死で勉強をがんばっていた高校生ではなかったじゃないか。

英語だけは得意だったので、ずば抜けて偏差値が高かったけれど、

国語や社会は「まあまあ」、理数は「ボロボロ」な生徒だった(笑)

どこにでもいる「中の中」くらいの高校生だった。

ひいき目に見ても、総合的に優秀な大学へ行けるほどの学力はなかったのだ。

 

もしも、わたしが遊ぶ時間も惜しんで勉強するような学生だったら・・・

それで有名大学へ行かなきゃもったいないような成績を残している学生だったら

わたしの両親は、きっと借金してでも大学へ行きなさいと言ったに違いないと思う。

 

「お金がなくて大学へ行けなかった」・・なんていう言葉は

 

自分が必死に努力をしなかったことを棚にあげた言い訳でしかない。

 

・・・ということに、この歳になって気づいた。

大学へ行けなかったのは、親の経済力のせいなんかじゃなく

自分は「親が大学に行かせてやりたい、と思ってくれるほどには勉強してなかった」

それに尽きるのだ。

 

今、別にやる必要のない努力を必死にしている自分は

高校生のころの何倍も勉強している。これは断言できる(笑)

だからこそ、こうして過去の自分を客観的に厳しくみられるようになった。

 

そのころに、勉強の大切さに気付けていたらもっとよかったけれど

まあ高校生のうちに気づける人なんて、ほんの一握りだし・・・しょうがない。

でも、今気づけただけでも成長したと思う。

 

自分の思い通りにならないことを、周囲の人や環境のせいにする生き方はしたくない。

完璧ではいられないかもだけど、できる限りしないと決めている。

特に、なんでも環境のせいにしている人っていうのは大抵愚痴っぽいから。

あれはちょっとみっともないな・・・と思う。(主にツイッターの話)

 

今、「大学へ行きたかったな」という心残りは消え去っている。

誰でもない、自分の力で過去の空白をひとつずつ埋めていくことで昇華できたから。

 

なにより、過去に満たされない思いがあったからこそ、今がある。

「したかったけどできなかった」と、

人は自分以外の環境や他者に対して言い訳や原因を求めがちだけど、

結局本気度の問題なのだ。

 

やりたかったらやればいい。いつからでも。

本気だったら、結果はともかく大抵のことはどうにでもなる。

 

50代。勉強を通じて別の大切なことを学んでいる気がする。

もう人生折り返しちゃっていつ死んでもおかしくないし

残りの人生そんなに多くないと思ってるから、

年齢なんて忘れてどこまでも突き進んじゃうつもりだ。

 

生活を潤せるのは自分自身。

 

 

(すみません、勉強モードに入っているので当面コメント欄閉じますね。)